戦後まもなくの混乱の中から生まれた、ものづくりの喜び。
これからの時代は、女性も働かなければならないと、収入を得る道を模索し、働くことを決意します。
#03 戦後の混乱の中で
1945年8月終戦を迎えた頃、のちに創業者の1人となる坂野惇子は、疎開先の岡山県で終戦を迎え、幼い娘を抱えたまま、夫 坂野通夫 の消息を危惧しながら、不安な日々を過ごしていました。
当面の生活費を工面できても、戦後の預金封鎖やインフレ政策によって徴収される財産税に途方にくれた彼女は、助言を求めて父 佐々木八十八(のちにレナウン創業者)と幼馴染の尾上清氏(のちにレナウン理事長)に今後の生活についての相談を持ちかけました。
惇子はそこで、尾上清氏より思いがけない言葉をかけられます。
「今までとは違うのですよ。もう昔のお嬢さんではいけない。これからは自分の手で仕事をし、自分の力で生きていくのです。一労働者になりなさい。」と。
尾上氏の強い言葉に驚く坂野惇子は、一瞬眼を見張りました。
「働く気になったら、出ていらっしゃい。生地でも売る仕事を作ってあげましょう。」と、親身にアドバイスしてくれたのでした。
また父からも同様に「もう時代は変わってしまったのだ。清さんが言うように、頭を切りかえ、健康にさえ気をつけてくれるのなら、誰も皆、働くというのはいいことだと思うよ。」と予期せぬ賛成の言葉が返って、惇子は働こうと決心したのでした。
疎開先へ帰る汽車の中、働くことにしようと決心し緊張を覚えるとともに、生死も定かではない夫がなんとしてでも早く生きて帰ってきてほしいと祈っていました。
その祈りが通じたのか、坂野惇子は夫の勤め先から「すみれ丸でほどなく帰国」という吉報とともに、夫の坂野通夫からも「すみれの花が咲く頃に帰れそうだ。」と投稿先も書かれていない短いハガキを8ヶ月ぶりに受け取って歓喜しました。
まもなくして、坂野通夫が無事に帰国し、1946年5月、疎開先から坂野通夫の兄の借家に移り住みました。空襲の被災後からすぐに疎開していた坂野惇子たちには、なにひとつ世帯道具の持ち合わせがなく、1ヶ月500円という限られた新円内ではほうきやバケツ、鍋や食器など最低限度の生活必需品でさえ揃えることもできず、不便な生活から始まりました。
やがて夏になり、坂野惇子はやはり何か働いて収入を得なければならないと考え、家で育児をしながらできる洋裁を選び、近所の人に頼まれて子どもの洋服を縫うことから仕事を始めました。しかし仕立て代を現金で請求する勇気がなく、お礼はいつも品物でした。
9月ごろ、父 佐々木八十八から焼け残った軽井沢の別荘の荷物を引き取るように言われ、残してきた荷物を整理することになりました。唯一残っていた荷物の中には、坂野惇子が娘時代から集めていたフランスの刺しゅう糸や英国製の毛糸、刺しゅう用の布地や洋服地、そしてまだ一度も履いたことのないハイヒール半ダースなどがありました。1947年から、坂野惇子は昔習い覚えた手芸をもとに、村井ミヨ子や姪、近所の人たちに週1回自宅で刺しゅうや編み物を教え始めました。
これがのちに、4人の女性創業者が誕生するものづくりのきっかけになったのです。