#01 4人の創業者

「自分の子どもに着せるつもりでお洋服をつくりましょう」「すべては子どものために」。
ファミリアの強い信念の源には、戦後の混乱期に【別品=特別な品】を生み出した
坂野惇子をはじめとする、4人の女性の存在がありました。4人の女性たちのそれぞれの言葉と共にご紹介します。

坂野惇子(ばんの あつこ)

1918年神戸に佐々木八十八(佐々木営業部(レナウン)の創業者)の三女として誕生しました。
戦後まもなく幼馴染の尾上清氏(のちにレナウン理事長)から「自分の手で仕事をし、自分の力で生きていく一労働者になりなさい」とアドバイスを受け、働くことを決意します。
1940年に坂野通夫と結婚し、長女出産時に欧米の育児法を学び、日本の家庭に広めたいという思いを抱き、当時のベビー子ども服業界に大きな革命をおこしました。主に会社経営を担当し、その活躍ぶりと優れたセンスは、多くの人々の心を動かし、多大な影響を与え、80歳まで第一線で活躍しました。

坂野惇子の言葉

販売にたずさわる者は一日一善は勿論の事、一日に幾十回となくお客様に対し、気持ちよく喜んで頂けるサービス(善行)が出来る、大変恵まれた職場にいるのだといえるわけです。
私たちは買うかたの身になって、素直な優しい心で接し、商品に対しては興味をもって熱心に知ろうとする事が大切です。
そして一日の勤めが終わった時、いつも胸を張って「ああ、今日も一日、幾人かのお客様によろこんで頂く事ができた」という嬉しさを日々愉しむように致しましょう。

田村江つ子(たむら えつこ)

1919年に榎並充造(バンドー化学社長)の次女として誕生。
坂野惇子のクラスメイトでファミリア関係者の中では坂野惇子ともっとも長い付き合いの人物になります。
手芸と、絵が得意だったのでオリジナル図案の担当をし、創業当時のファミリアの商品ほとんどの図案を作成するなど商品企画に力を注ぎました。図案には自分の願望をいれずにものの正しい姿を表現の大きさにあわせて作成することを大切にしていました。今も受け継がれている愛らしいアートに欠かせない人です。

田村江つ子の言葉

ファッションの仕事はそのうわべの模倣だけでは人の心をひきつけることは出来ない。
正しい基本にもとづいた上で、いち早い新しい情報のキャッチ、柔軟で新鮮な感覚をもって時と、場所と、機能と、特に子どもには年齢を意識の基礎にして製作に努力している。

田村光子(たむら みつこ)

1907年田村駒次郎(田村駒株式会社創業者)の長女として誕生。
田村江つ子の義姉で、父親譲りの優れた商才を受け継ぎ、洋裁を担当しました。
自宅の庭に岡本研究所を造り生産と品質管理を一手に担いました。
創業者の良き相談相手でもあり、その半生をファミリアの生産・ものづくりに一途に勤めあげた人です。

田村光子の言葉

この間20年余り、どうしてここまで続いたのか考えてみるに、
お互いにお互いを絶対に信用し合っていたこと。自分の責任の仕事には全力を尽くす。他部門に対してはその責任者が最適任であり、又最良の方法を以て全力を尽くして居られると信じる。
それがここ迄続いてきた大きな要素ではなかろうか。

村井ミヨ子(むらい みよこ)

1923年中井栄三郎(日本綿花・現双日の東京支店長、後に常務取締役)の長女として誕生。
坂野惇子らが「ベビーショップ モトヤ」を開業する事を決めた時に、惇子から誘われ、ニットの手編みやキャラクターの企画プロデュースを担当しました。人との繋がりを大事にしておりキャラクターの権利者たちとも親しくまた信頼されていました。
持ち前の明るさと人柄でファミリアの一翼を担っていた人です。

村井ミヨ子の言葉

「誠意は人を動かす」
よい商品をお客様のご要望、立場にたって気持ちよく一緒になって考えること。その誠実さが販売の基本のあり方だと思います。
どんな困難な苦情でも誠意をもってあたれば解決出来ないものはないとも聞いております。
また、誠意は販売に限らず、社会に生き、仕事をしてゆく上で一番大切なことではないでしょうか。

  • 左から田村光子・坂野惇子・田村江つ子・村井ミヨ子

ファミリアの軌跡